二度目の“震災”を目撃して思い出したことなど

2011年4月3日

年度末進行のお仕事がようやく決着したので、この半月ほどもやもやとしていた何かをここに書いておきたいと思います。

まず、今回の東日本大震災で亡くなられた方を悼むとともに、被災されたたくさんの方が少しでもはやく穏やかな日々に戻られることをお祈り申し上げます。

今回の震災の混乱の中で、前回の震災の一つの決着がありました。

MSNニュース:復興土地区画整理が完了 兵庫(2011.3.29)

神戸市は28日、阪神大震災の復興土地区画整理事業(11地区、143・2ヘクタール)で、唯一残っていた神戸市の新長田駅北地区(59・6ヘクタール)の土地の位置関係や清算金を確定し、事業完了を示す換地処分を公告、約16年にわたる区画整理事業が終わったと発表した。

1995年の阪神淡路大震災は、関西の住民にとって、多かれ少なかれ何らかの影響を受けた出来事だと思います。
関西の中枢にあたる京阪神地域の住人は「大地震は太平洋に面した地方のもの」を常識のように思っていて、大地震に対する備えをほとんどしてきませんでした。それが神戸のほぼ真下で起きた地震で、根底からひっくりかえされたショックは相当なものだったと思います。
当時15歳だった私にとっても「朝、いつものように目が覚めたら隣の街が壊滅していた」というのは頭が真っ白になった出来事でした。

それから16年、神戸の街は再建完了の一つの節目を迎えました。それが上の記事です。
中学3年生だった私は31歳になり、あの年に生まれた赤ちゃんが今年、春の高校野球で白球を追いかけています。
震災から“復興”するには長い時間がかかる、それを肌身で知っているのが関西の住民です。

地震当日からその後の数日間は、生きるか死ぬかの瀬戸際。その後は少しずつ日常を取り戻すための活動が始まります。他の地方へ移って行く人が居たり仮設住宅の都合で離れ離れになって、地震以前にあった地域のコミュニティがぼろぼろと歯抜けになって行きました。
そうして、震災から数ヶ月後〜数年後の新聞やニュースで、仮設住宅で一人暮らしのお年寄が孤独死していたという記事をしょっちゅう見かけました。もうその頃には全国メディアは地下鉄サリン事件から続くオウム真理教の話題で持ちきりで、そうした「地味な」ニュースは関西ローカルでしか見かけなかったと記憶しています。

今回も全国メディア、特にテレビは、今目の前にある危機・福島の原発事故に一定の目処が付けば、もう被災地にはメモリアルデーにしか目を向けないだろうと思います。だって悲惨な光景も人間ドラマも出尽くして、あとは地道な再建の日々の積み重ねしか残ってないんですから。でも、そういうものなんだと今はもう諦めもついたし、大規模災害を目の前にしてワイドショーやバラエティ仕立てのものしか作れないメディアなんて、別に無くてもいいかと思うようになりました。

関西の住民として思うのは、東北や北関東で生活基盤が揺らいでいる方達に対して、故郷を完全に離れてしまうのは辛いだろうから、少しの間骨休めできる一時撤退所として関西を有効活用して欲しいということです。
破綻寸前の大阪府政は今以上にピンチになるかもしれませんが、そのために毎年納めている地方税が使われるなら、大金をどーんと義援金に募金できなかった貧乏人としては少し気も軽くなるというもの。
たとえ実際に来られなかったとしても、辛くなったらいつでも関西に骨休めに行けばいいということで気分が楽になれば嬉しいなと思っています。

先月の半ばの地震当日から、阪神淡路大震災を経験した人達があの時のことを思い出して電話相談が増えているという記事を新聞で見かけました。
私自身、気仙沼の火災をテレビで見てすぐに神戸の震災時の火災の映像を思い出してしまい、文字通り血の気が引きました。私は大阪と京都のちょうど中間にある枚方市に住んでいて、16年前には通っていた中学校の窓ガラスが何枚か割れた程度の被害しかなかった、いわば「被災地未満の周縁地域」の住民です。それでも毎日神戸の被害をテレビで見続けて16年たった今でもそんな風に思い出すのですから、あのまっただ中に居た人たちはどれほど心を痛めているだろうと思います。

そんな周縁地域の子どもだった私が今ぼんやりと思っているのは、似たような境遇の少年少女は一体どうしているんだろうということです。

私はあの冬、学校や塾に行って、1月末の私立高校の受験、2月半ばの府立高校の受験に備える、普通の生活にすぐに戻ることができました。ひとつ違っていたのは、毎日学校から帰って塾に行くまでの数時間、両親の友人知人の名前がないかテレビで安否情報を見続けたことくらいです。

学校でも同級生はみんな普通にしていました。ただ、それも地震から数日して事態は思った以上に深刻らしいと分かるまでのことで、今度は自分たちの身に影響することを心配し始めました。
つまり、受験はどうなるの?ということです。
関西の私立高校には有名大学の系列高校も少なくありません。そうした学校のうちいくつかが神戸や阪神地域に点在しています。そこを受験する予定だった同級生が何人かいたわけです。
私自身は同じ枚方市内の府立高校が第一志望だったので、彼らの不安は文字通り他人事でしたが、それでも思うところは様々ありました。

大災害に見舞われて、家を失ったり親を亡くした同世代の子がいるのに、そこから電車で2時間ほどしか離れていない町に住んでいる自分はいつも通りの生活をして受験の心配をしている。同級生は志望校を受験できるのか心配している。みんな4月にはちゃんと高校生になれるんだろうか。避難所生活を余儀なくされている人からすればつまらない、受験みたいなどうでもいいこと、自分のことしか心配できない、私はなんてセコい奴なんだろう。こんなことを思って自己嫌悪し、そうしながらも試験の日はどんどん近づいてそれしか考えられなくなる。これが1995年1月25日前後の私の精神状態です。

被災地でボランティアをしたり、救援活動に参加した人たちは、言い方は悪いですが充実していたと思います。そういうことができるほど大人でもなく、なにもわからない子どもでもなく、何もできない自分をどうしようもなかったあのときの自分は、未だに消化不良のまま残っています。

あのとき感じた自分のセコさ、小ささを、同じように感じている被災地周縁地域の子が居るかもしれない。でも、そういう風に感じている事を大事にして欲しいと思います。
大人になるに従って、できる事や知ってる事が増えて、自分が肥大して行きます。順調な人生を送ることができて、偉くなったりお金持ちになったりするかもしれません。でも、何かあったときに自分のセコさや自分本位にしか考えられなかったことを思い出して欲しいのです。
偉そうなことを言っても、お前は結局セコい人間やないか、震災のときに安全な場所に居ながら自分のことしか考えられんかったくせに、と冷静なもう一人の自分が言ってくれるのは、ある種の増長を防いでくれます。

結局、両親の友人は避難所に居ましたが全員無事で、その後ライフラインが復旧すると共に自宅に戻ることができました。
私の私立高校受験の2日前、連絡がついた人のところへ両親と弟がリュックサックを背負ってお見舞いに行くことになり、ここでも私は何もできなかったという実積を積んでしまいます。
ひとまず水と食料は足りていて、今は家の片付けをしているというその家族のところへ、レジ袋を畳んでまとめたものや、雑巾にする古いタオル、ポケットティッシュ、使い捨てカイロなどを持って行きました。朝早くに家を出て大阪から電車に乗って行けるところまで行き、途中からは徒歩、相手の居る避難所についたときには少し立ち話をして引き返さないと日が暮れるまでに電車に乗るところまで戻れないという行程でした。

そうして帰ってきた家族は、行き来のしんどさよりも自分の知っていた街並みが無くなっていたことに疲れきっていました。弟はまだ小学生でよく分かってないようでしたが、両親は仕事や遊びに何度も行った神戸がまるで見知らぬ町になってしまったようで、そのことが辛かったようです。
京都・大阪・神戸の三都市は、キャラクターが全然違うユニークな都市ですが、大阪の人間にとって神戸は異国情緒のあるおしゃれな町で、大阪で成功したらみんな神戸に家建てて行ってまう!と憎まれ口を叩いていても、自慢の隣人です。その町がなんであんなことに…というのが正直なところでした。

今回の震災で、私が知っている地域は仙台市街と松島のあたりだけです。一昨年の夏に関西のTwitterの友達と数人で仙台のTwitterの友人に会いに行って、遊びに連れて行ってもらったからです。

飛行機で仙台空港に降りる前、海の上を飛び、海岸近くの風景を見ました。空港から仙台市街へ向かう間、大きな川にかかる橋を渡り、左右に田んぼの広がる道を走りました。
Flickrに載せてあるそれらの写真を見て、この辺りは全て津波でめちゃくちゃになったんだと、あの時見た田んぼの中のおうちや建物は全部無くなったんだと思うと、なんとも言えない妙な気分になります。
それから、松島で乗った遊覧船、あの船はどうなったんだろうとか、お土産を買った売店の人は逃げられたんだろうかと思い出すとキリがありません。

私が見た仙台の町はあちこちに森がある緑の豊かな町で、食べるものも美味しくて、スーパーに行くとやたら豆の種類がたくさんあって、豆スナックもやたらと多い面白いところでした。
いずれ仙台へ観光に行けるようになるはずなので、その時にはもう一度青葉山城趾でずんだもちをいただきたいと思います。