「逍遥遊」のこと

2015年5月8日

―現代刀匠二番勝負―お守り刀展覧会×二次元vs日本刀展」を見た後、刀匠の銘切り実演で好きな字をプレートに切っていただけるということで、一番好きな熟語をお願いしました。

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『荘子』の最初の章は「逍遙遊篇」と言います。この逍遥遊です。
わたくし自分のアイコンや持ち物に蝶を使いたがる程度にミーハーな荘子ファンなもので。
日常生活では使わない言葉なのでたまに「どういう意味?」って聞かれるんですが、いつも一言で説明できなくて「めっちゃフリーダム言うことです」という分かるような分からんようなことを言ってごまかしております。

字典を引くとこんな感じの説明が載っております。

逍遥遊:何ものにも拘束されない全く自由の境地。

うん、分かるような分からんような。
逍遥というのは気ままにブラブラすることです。散歩よりさらに目的もなくぷら〜っとほっつき歩くようなイメージ。遊はあそぶ、ですね。これがどうして「全く自由の境地」という大層思想的なにおいのする説明文が付くような熟語になるかと言いますと、荘子のせいです。
詳しいことは「逍遙遊篇」を読むと書いてあるんですが、要するに「色々なしがらみも全部分かった上でそこから自意識を解放して自覚的に自由になれる人がサイコーなんやで」という話です。ちょっと仏教っぽいところありますね。

賢ぶって引用をば。

若夫乘天地之正 而御六氣之辯 以游無窮者 彼且惡乎待哉 故曰 至人無己 神人無功 聖人無名

もしそれ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は彼はたいずくにか待まんとするや。
故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし」と。

このフレーズに到るまで、逍遙遊篇には「視野の狭いやつには視野の広いやつの考えてることは分からん」という寓話がたっぷり語られます。例えがすごく大袈裟で、スズメみたいな小さい鳥と山より大きい伝説上の鳥の見ている世界の比較の話とか出て来ます。発想が突飛で面白いです。
他人と自分の比較とか、世の中のいろんな価値基準で自分の思考を規定していくのではなくて、天地に存在している自然のルールに従って行動し、無限の可能性の中をぶらぶらと気ままにほっつき歩き、遊ぶように生きることができれば、それこそが真に自由な人であろうというお話が書いてあります。

日々、いろんな情報に触れて規定されたことや、自分ではめた思考の枠がどんどん増えて行きます。それがそのうち自分の中で変な風に凝り固まって行くと「これはこうでなければならない」というちょっと別のものに変わります。
「〜なければならない」ばかりになると、面白いことを思いつかなくなります。「〜なければならない」は所詮自分で作りだした思い込みに過ぎません。

段々と煮詰まってきたなぁと思った時、「いっぺん棚上げしよう」と切替える時に使うのがこのキーワードです。