北京オリンピックと愚痴

2008年8月6日

オリンピックを機に北京から中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素は一掃されるのであろう。
けれども、それと同時に「中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素」に対する哀惜と懐旧の気分もまた一掃されるのだとしたら、私は中国人に対して、その拙速を咎めたいと思う。
私たち日本人もまたそんなふうにして、失うべきではないものを捨て値で売り払ってしまった。それがどれほどかけがえのないものであったのかを私たちは半世紀かけてゆっくり悔いている。
北京オリンピックに思うこと (内田樹の研究室)
…という内田センセの文を読んでてぼんやりと思ったこと。
Web上で中国についてあーだこーだと言う人を見かける。
Twitterでやりとりする人の中にも居るし、それについてその都度言っても詮無いことなので言わないけれども、共産党の中国と、それ以前の中国とで、共通していること(方法論とか考え方とか)と違っているところを厳密に区別して発言しているのか、ただ2000年代の今現在、流れてくるニュースに対して「反応」しているだけなのか、…どうも妙な気分になることが多い。
2000年代の日本に生きている以上、その時代の目を持っていることは避けられないことで、むしろ当然なんだけれども、もう少し違う年代や意識にピントを合わせられるようにはなれないものか。
あらゆる出来事に対して、2000年代の日本人の目でしか見ることが出来ない、というのは、ちょっとお寒いものがある。
…これは愚痴やね。
故 市川崑監督の作品に『東京オリンピック』という記録映画がある。
しょっぱなから、それまでの東京を破壊するところから始まる映画。
このとき、それまでの「戦後すぐの日本」は死んで、「新しい日本」が動き出す。
東京オリンピックは間違いなく国家プロジェクトで、それは見事に成功して、日本人は「もう敗戦国ではない」という意識を持つことが出来た。
多分これは日本人にとっては常識なんだろうと思う。
新しい日本は、国民がみんなほどほどに豊かで、お父さんとお母さんと子供がふたり、郊外のこぎれいな団地や一戸建て住宅に住む、という時代を志向し、その夢を叶えたあと、今のような状態に行き当たっている。
北京オリンピックと東京オリンピックの何が違うのか、わたしには分からない。
発展途上国から先進国に仲間入りするための大掛かりなプレゼンテーションであり、セレモニーという意味では全く同じにしか見えない。
日本の場合は「敗戦国日本」を脱ぎ捨てた。
中国の場合は何かな?「新興国から真の先進国へ」?
それとも「五四以来のナショナリスティックな中国よ、さようなら」かな?
そうだったら良いけど、十中八九ありえない。
中国がオリンピック後、日本ほど恵まれたルートを行けるのかというと、危ういんだろうなぁというのは常に思っている。
わたしが大学で中国のことをやっていた10年近く前の時点で、そういう空気はすでにあって、当代の作家達が発表する作品にも、社会のいびつな変化を描くものがたくさんあった。
オリンピックまではこの路線を爆走していくだろうけど、その後は?という段階まで思索が進んでいた。
だから、これはわたしのオリジナルな意見ではもちろんない。
ただ、そういう危うい状況だからといって、2000年代の今の目で中国のさまざまな問題点をあげつらい、バカにするだけで終わるというのはあまりにも稚拙すぎやしないかな。
結局わたしたちは日本人なのだから、隣国がどうなったとしても、未来永劫おつき合いしなければならない宿命にある。
あちらが公害で国土が荒廃しようが、クーデターが起ころうが、突如とちくるってこちらを攻撃してこようが、あちらとご近所付き合いをやめるわけには行かないのだから、なぜあちらは現状ああなっていて、ああいう言動をするのか、ほんのちょっぴり利己的ではあるけど、こちらとしてはどうすれば「こちらのダメージが一番少なくてすむ」か、そういうことを思って欲しい。
それも、1950年の天安門広場からではなくて、少なくとも洋務運動や、アヘン戦争のあたりから、考えるようにして欲しい。
そうすれば、もう少し、見え方が変わるかもしれない。