いくたまさんの元宮駐輦を見てきた

2014年7月27日

7月は大阪では夏祭りのシーズンです。
愛染堂を皮切りに、生國魂(いくくにたま)神社、難波八坂神社、平野郷夏祭り、クライマックスが天神祭で、トリが住吉大社という風に、毎週末どこかで祭りをやっています。
大阪三大祭りと言うと「愛染さん、いくたまさん、天神さん」の三つ。人によっては「愛染さん、天神さん、住吉さん」となったりします。
うちの会社のある天満橋はちょうど生國魂神社の氏地(テリトリー)の北端にあたり、毎年夏祭りが近づくと通りには大きな幟が立ち、祭り当日には枕太鼓やお神輿、神職と巫女の方々を乗せた何台ものトラックがビルの谷間を走り抜けて行くのを見ることができます。
そう、トラックが走って行くのです。トラック渡御って何それ…。
どうしていくたまさんの渡御は徒歩でなくて自動車なのかと言うと、最大の理由は御鳳輦がなかったから。渡御というのは神様をこの御鳳輦に乗せて氏地を廻り、その繁栄ぶりをご覧いただくという行事なので、これがないと始まらないんです。いくたまさんの御鳳輦は空襲で焼けてしまって、70年間ずーっと簡略版=トラックでやってきたというわけ。
ところが、今年はその御鳳輦が復活しまして。併せて徒歩で行う渡御列も行われました。
【産経】大阪夏の風物詩「渡御列」70年ぶり復活 いくたまさん、空襲で焼けたみこしを寄付で新調
せっかくなので渡御列を見たいぞ!と思っていましたらば、今年は幸いにも本宮の日が土曜日だったので、渡御のゴール地点にあたる大阪城のお旅所に行くことにしました。
いくたま夏祭りのスケジュールはこんな感じ
当日大阪城に行ってみますと、予定よりもスムースに行列が進んだため渡御は終わってしまっていました…。残念。もっと早く来ないとダメですね。
が、転んでもタダでは起きないわたくし。例年は仕事をしてる時間に行われる「元宮駐輦」を見ることにしました。
今、生國魂神社は谷町9丁目にありますが、元々は今の大阪城の天守閣の位置にありました。豊臣秀吉が大阪城を作る時に邪魔だったんで今の場所に移転させたんです。
それで、祭りの時はこの「元々神社があった場所=元宮」に「御鳳輦を置く=駐輦」して祭事を行います。
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こちらが大阪城の大手門脇にあるお旅所に到着して祭事のスタンバイ状態になってる祭壇。真ん中の大きいのが御鳳輦です。
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暑いので、祭事が始まるまで日陰や休憩所に涼みに行く氏子のみなさま。
狩衣の人は袖をばさばささせるとちょっと涼しそうだったけど、裃の人は本当に暑そうでした。
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そうこうしてる間に班ごとに集合が掛けられ、神事を行う体制に。
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私が居た場所は祭壇から雅楽の銅鑼と茂みと木を挟んだ真横で、神事をやってるところに近すぎて気が引けて撮ってません。割と小心者…。
神事は列席者全員による拝礼、神職の祝詞、お稚児さんの拝礼、巫女さんの舞の奉納、雅楽の奉納、枕太鼓の奉納、獅子舞の奉納、大阪締め(生玉式)でした。順番はちょと前後してるかも。
それまでかんかんにお日さまが照りつけてたのが、舞の奉納で巫女さんがシャラララ…と鈴を鳴らした時に西から吹く海風が出てきたのが印象的でした。そういうスケジュールを組んであるんでしょうね。
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枕太鼓奉納。このあたりはなんか撮っても大丈夫そうな雰囲気だったので。
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獅子舞奉納。後ろに老若男女のダンサーズが付き従います。天神祭の獅子舞は小さな傘ですが、いくたまさんの獅子舞は扇子を持っています。
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後ろに見えてるビルは大阪歴史博物館とNHKです。
大阪締めは大阪独特の手締めのスタイルです。大阪府下でも郊外に住んでるとやる機会はありません。大阪市内の祭りや商売の集まりなどでしかやらないので、初めて遭遇した人はリズムがつかめずに「え?え?」となります。天神祭の船渡御では他の船とすれ違う際にこれを毎回行うので、一般参加の船に乗船する場合は出航の前に大阪締めの練習があり、覚えるまで船は出ないとか。厳しいですね〜。
一般的な大阪締めは「打ーちましょ(パンパン)もひとっせ(パンパン)祝うて三度(パ パンパン)」ですが、生玉式は「打ーちましょ(パンパン)もひとっせ(パンパン)祝うて三度(パ パンパン)本決まり(パンパン)」と1セット多いです。
他の地方、たとえば福岡などにも独特の手締めがあるそうなので、近世の商業都市にはお互いの連帯意識を高める是非物だったんでしょうね。
この後、さらに神職の方々は中央区役所のはすむかいにある農人橋のお旅所を廻って神社に戻ります。
さて、神職の祝詞で「大昔の天皇がこの場所に神社をお作りになって云々(意訳)」という由来を語るシーンがあり、個人的にギモンに思ったのは「いくたまさんって結局何なの?」ということ。
八幡さんやお稲荷さんなど全国に大勢力を誇るメジャーな神様と違って、生國魂神社というのは一ヶ所しかありません。
『古事記』に載ってる神話によると、九州の宮崎から東征に出た初代天皇・神武天皇が岡山の次にこの辺りに上陸し、ここに「生島神」「足島神」という一対二神を祭ったのが生國魂神社。神武天皇はこの後色々あるものの、奈良を中心に勢力を持っていたナガスネヒコを倒して奈良の橿原に至り天皇として即位するストーリーです。
生島神・足島神は大阪の生國魂神社と長野の生島足島神社、あとは宮中の祭殿の三ヶ所で祀られる神で、「日本列島そのもの」の神と言う紹介がされています。このうち、生島足島神社については長野の豪族が宮中からこの神を招いて祀るようになったのが始まりで、今は「日本の真ん中」にあるということで「日本列島そのもの」の神を祀る神社だと自負されているようです。
生島神が「力が生まれてくるさま」を、足島神が「力が充満しているさま」を表すということで、別の呼び方では「生国神」と「咲国神」と言うこともあり、この呼び方から「生國魂神社」と言う名前になっているんだなと分かります。
平安時代あたりまでは天皇の代が変わるたびに「八十島(やそしま)祭」という祭をやっていたそうです。これは朝廷から大阪に勅使が派遣され生島神・足島神と住吉神を祀る行事で、これに任じられて大阪へ出向くことを「八十島下り」と言いました。生島神・足島神が日本列島の神、住吉神が海の神なので、日本という国のハードウェア面の神々に天皇の代替わりを報告するということになると思います。
神武天皇はどうしてここに生島神・足島神を祀ろうと思ったのか。やっぱり地形的にそれらの神々の力があるように見えたんでしょうか。
大阪湾環境データベース 大阪湾の歴史
大阪の郷土の歴史で習うように、大阪は元は大半が海でその中に上町台地が岬のように突き出ていました。その北の突端にあるのが大阪城、つまりは元の生國魂神社です。長い年月の間に淀川や大和川が運んでくる土砂が堆積して今の大阪平野が形作られて行き、岬であった上町台地が海岸線になり、さらにその西側に埋め立て地が増えて今の形になります。
神武天皇が正確にいつの時代の人なのかは分かりませんが、古墳時代の始め頃、大和王権が成立した頃の誰か(もしくは大和王権の王・最初の何人か)がモデルになったんだろうと思います。その当時は上町台地の岬の東側に河内の海、西側に大阪湾があり、河内の海ではいくつも島や島に成りかけている中洲ができつつある風景が見られたんでしょうね。
それで「ここから日本列島が生まれてくるんだ」と思ったのだとしたら、確かにここに生島神・足島神を祀ろうと思うよなぁ…と想像したりして。
なかなか楽しい想像をさせてくれるお祭りでした。