大阪七墓巡り 2015に参加しました

2015年9月3日

今年の夏も暑かったですね。盆休みの3日間は「大阪七墓巡り 2015」というイベントに参加しました。
イベントの中身は後日ちゃんとしたところから記事が出るそうなので、私の中でこのイベントについて考えたことを書き留めておきたいと思います。
さて、七墓巡り。これは七墓参りを現代に持って来たものです。
コトバンク デジタル大辞泉の解説
ななはか‐まいり〔‐まゐり〕【七墓参り】
昔、大阪で、陰暦7月16日の宵から翌日の夜明けにかけて、鉦(かね)・太鼓をたたきながら市内の7か所の墓地を巡って参拝したこと。また、その巡拝者。
江戸時代に大阪の町衆の間で始まった風習で、元禄の頃には大阪の夏の風物詩になっていたようです。
明治に入ると墓場の移転もあって廃れ、現代・平成になって観光プロデューサーの陸奧さんがちょっと変わった「町歩きツアー」として復活させるまで史料の中にだけ残っていました。
産經新聞:肝試しか婚活か…近松作品に登場する「大阪七墓巡り」現代人がはまるワケ
本来的には大阪の町の各墓地に眠る、誰とも縁のない(=無縁)の死者を弔うというコンセプトです。
ただ、提灯の明かりを頼りに真っ暗な中で墓地を巡るというイベントは当然肝試し的な楽しみを伴うもので、一般化するにつれ男女の出会いの場にもなって行ったようです。墓巡り婚活というと現代人の感覚では「うえぇ〜」となるかもしれませんが(笑)
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十三のいま昔を歩こう : 大坂七墓巡り1に掲載の明治始め頃の地図
江戸時代の大阪の町の周辺にあった七つの墓場。梅田、南濱、葭原、蒲生、小橋、千日、飛田。
このうち、小規模ながら現役の墓地が残っているのは南濱、蒲生、千日の3つのみ。あとの4つは碑があれば残っている方、ほぼ跡形もなく消えています。どれくらいきれいな消え方かと言うと、奈良時代に起源を持つ梅田墓地の往時が、今は更地になっている梅田北ヤードから阪急梅田駅のあたりまで広がっていたということから考えてみてください。
墓場はそれぞれ、市中から伸びる街道の入り口にあります。中世都市における墓場はおおむねこのような配置になっており、その傍らには遊郭や刑場が設けられています。いわゆる「悪所」と言われるエリアです。刑場が町の入り口にあるのは、他所の町から来た旅人に対し「この町で犯罪を犯すと厳しく罰せられるぞ」という見せしめの意味もあるそうです。
RPG風に言えば、町の中が人間の住む世界で、外がモンスターの徘徊する危険な異界、その間の緩衝地帯が墓場・遊郭・刑場というイメージでおそらく間違いないかと。
大阪は墓に囲まれた町でした。京都がその周囲に鳥辺野、化野、蓮台野(紫野)という風葬地を持っていたのと全く同じです。
今であれば病院で亡くなり、そこから葬儀会館や焼き場に行ってお骨になって家に戻って来るのが一般的ですが、昔は病院に入院するスタイルはありません。近代医療が一般化するまでは、やれインフルエンザが流行っただの、夏の暑さが厳しい or 冬の寒さが厳しいだので、自宅にいながら弱い子どもや老人からぱたぱたと死ぬのが日常です。
どうしたって都市は日々死者を生み出すものなのです。
現在は「跡」しか残っていない墓場を巡るとしても、オカルト的な意味で怖くないのかと言う言葉もちらほらいただきました。
正直なところ、それは人に依りますネーとしか言えません。見える人には見えるという定番の場所も含まれますので。
よくある「怖い話」で、戦場跡では鎧武者の幽霊が出るとか、写真を撮ったら人魂が写るとかいう話があります。恨みを持ったまま死んだ人の魂が彷徨ってるとかなんとか。
私の地元・枚方市でも八幡市との市境にあたる国道1号線・洞ヶ峠には幽霊が出ると言われています。
枚方市と八幡市の市境のあたりは有名なものだけでも明智光秀と豊臣秀吉が戦った天王山の戦い(死者約6,300名)、幕末の鳥羽・伏見の戦い(死者約400名弱)で戦場になっているので立派(?)な戦場跡!幽霊くらい出てもイイヨネ!と思える場所なのですが、その理屈で言うと私の生活圏内における最大の戦場跡でそういう話はあまり聞きません。
私の生活圏内における最大の戦場跡とは、会社のある天満橋一帯・大阪城城下です。
この10年、終電まで仕事したり泊まったり、一時期は住んだりもしてるんですけど。
八軒家かいわいマガジン「八軒家タイムトラベル 慶長二十年(1615年)五月七日
黒田長政が描かせたと言われる黒田屏風。NHKの「その時歴史が動いた」で「戦国のゲルニカ~大坂夏の陣 惨劇はなぜ起きたのか」というタイトルで取り上げられたこともあります。
大阪夏の陣の様子を描いた屏風には、東軍が大阪城に攻め込む様子の続きに、早期決着したせいで避難する暇もなく着の身着のまま逃げ惑う大阪城周辺の民衆が東軍に殺戮される姿が描かれています。
東西両軍の合計戦死者が約2万人とも言われる戦いとは別に、そうした殺戮で死んだ民衆が数万人と言われています。大阪城から北へ逃げるには大川を渡らねばなりません。そこで襲われた人々の遺体で川面が埋まったと言いますから、凄まじい光景です。
今年はちょうど夏の陣から400年にあたる年ですが、川べりに立って脳内タイムトリップしているとすごく楽しくて、自分でもちょっとヤバいと実感しています。
夏の陣の後、大阪の町を復興させるために江戸幕府が採った施策は色々あり、他の土地から商工業に関わる住民を移住させることも行っています。彼らが商都・大阪を作り上げて行くのですが、数万人の死者がちゃんとした弔いもしてもらえず町の周囲にある墓場にざっくり片付けられているところへ移住して来たとなると。住むものとしてはいささかもんにょりする状況です。
江戸時代の「七墓参り」は、そのもんにょり感を払拭するために始まったものではないかと言うのが、今回の町歩きの解説で語られました。
あからさまに夏の陣の死者を供養すると言うと豊臣方に与するようで幕府も良い顔をしません。ですが、無縁仏を供養するための回向であると言えば表立ってNOを言う理由もありません。
なんせ「無縁仏」ですから。無縁、つまり誰にも縁のないものは敵でも味方でもないのです。
その理屈で供養をし、供養をすることで都市から死者の影を拭い去って行く七墓参りのやり方は一見泥臭く草の根活動に見えて、その実スマートだと思います。生きている人間が「お祀り・供養しているのだから大丈夫」という文脈で決着を付ける手法は平安時代の御霊信仰で言う「祟り」の頃から変わりませんが、神社を建てたり名誉回復する真正面なやり方でなくても良いという見本のように思います。
毎年、やかましくも楽しげな供養パレードが続けられた結果、大阪市中は「戦場跡」でなくなって行ったのでしょうね。